TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

随想、文フリのあとで

今日、よい演劇を観て、いいなあと思った。その後、こちとら小説だなんてかったるいクソ複製芸術をいつまでやればよいのか、馬鹿ではないのかと思った。

 

演劇ならば、少なくともそこにいた数十人のお客さんには、何かを届けられたことが確定している。その結果の大小や中身はどうあれ。生身の身体による熱、みたいなものを指して「何も伝わっていない」と言うのはちょっと難しいと思う。

 

他方小説は、買ってくれたとしてもおそらくは読まないで放置するのが大半である。というか自分もそう。その代わり、数十年後とかにふと本棚から取り出して読んでくれる可能性がつねにある。ライブではない複製芸術とは、つねに時限爆弾のようなものとしてある。

 

ただ、人知れず時限爆弾をばら撒くような地道な社会改良運動を、いつまでやれるのかは甚だ疑問になってきた。そんな運動は即時的な喜びを伴わないからである。

 

 

これにはあらかじめ自分で突っ込んでおこう。小説を「社会改良運動」だと思っているのがそもそもの間違いだろう、と。

 

まあそれはそうなんで、そりゃ気楽にすべて自己満足のためですと開き直れたらきっとハッピーなんだけども、元来の性質上、そして受けてきた教育上、どうもそうはいかない。

 

ただしここに幼稚なねじれがあるのもまた確かで、「社会改良」と言っても別にストレートな(2010年代以降のいわゆる「ポリティカルコレクトネス」的な)啓蒙をしたいのではない。だから突き詰めていけば「自分の思うところを分かってほしい」という、わりと矮小な響きの願望に落ち付くんだろうとは思う。

 

いやいや。「分かってほしい」だなんて、それが一番難しいんじゃん、と、僕はここでまた自分に突っ込むことになる。

 

 

結局「完全に分かり合う」ことができるのは過去の自分や未来の自分だけであって、人に期待しても仕方がない。と思っていたら、ちょうどあのちゃんがそういう歌を歌っていた。

 

あのちゃんを考えるということは、今の社会を考えるということである。みんな自分が普通だと思いたいから、あのちゃんの変な部分を批判したり、嘲笑ったり、どうせキャラなんでしょと言ったり、「不思議少女系」なんて括ったりするのだ。

 

けれどそれら全部が「普通」の側というマジョリティからの視線にすぎないのだと、あのちゃんのアティチュードやふるまい自体がそもそも喝破してるわけじゃないですか。僕が感心し、共感しているのはそういうところだったりする。

 

で、話を戻すと、やっぱり「普通」の側の人に、何かを分かってほしいだなんて思っちゃいかんのだ。しかも批評という病、あるいは文学という病は、人とは決して共有ができない。病とはそもそもそういうものではなかったか。

 

だから、これからも愚直に生真面目に「文学」やっていたいのなら、社会のほうなんて向かないほうがよいのかもしれない。いや社会のほうを、他者のほうを向くべきだ、という「正しい」指摘をされたとしても、決して耳を貸してはいけない。

 

とにかく、どうやってこのまま続けるか。文フリ京都を終えて、最近はそればかり考えている。