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日記の亜種

賢さ及びそのどうでもいい複雑さについて

世の賢い人ら曰く。たとえば「世間のふつうの人たち/ふつうじゃない私」のように、人間をふたつに分類するのは単純すぎると。

 

これはコンテンツの構造の話でもある。いわゆる純文学と言われるような小説や、それに類する映画なんかでは、上のような二分法を採用して「泣き」を作ることがある。人間の生きづらさを描写するために。

 

ただその単純な仕組みからもっと踏み込んで、「ふつうの人」と「ふつうじゃない人」がいるのではなく、ふつうの人の中にもふつうじゃない部分があり……みたいな複雑さまで描くと、視点が複数的だから偉いということになる。

 

まあ理屈として分かる。たしかに偉いとは思う。

 

けれどその「偉さ」自体が、健康なインテリによる勝手な評価軸でしかないと思うところもある。要するに、「単純すぎる二分法」っていうけれど、実際に世界はそのくらいシンプルなのかもしれない。実際に人間はふたつに分かれるのかもしれないと。

 

風の噂で聞いたんだけど、どうやら、毎日毎日「死にたい」と涙をこらえながら過ごしてるわけではない人たちがいるらしい。自分はおかしい、ふつうでない、という自意識についぞ苛まれることのない人がいるらしい。挙句そうした態度をメンヘラだの、思春期だの、ぴえん系だの、病み期だの、論理的で合理的な「強者」側の視点からの言葉で要約したり。

 

そのしんどさには最終的には理由がない。もちろん理屈は色々つけられるんだろうけど、突き詰めれば理由なんてなく、単に「そういうやつだから」でいい。むしろ、自分がしんどいのを他人や世界や社会や夜や雨や過去や恋のせいにできたならずいぶんと楽でいい、とさえ思う。それに理由がないから、昔の人たちは原罪だとか来世だとか言い始めたはずで、彼らのほうがよほど誠実だ。

 

僕は哲学だとか批評だとかに興味があるので、何を言えば「賢い」と認定されるのかは大体わかる。という観点からすると、今日ここに書いたことっていうのは、実存と感覚に依りすぎていてちっとも賢くない。

 

ただ、そういう指摘をできることが「賢い」っていうことなら、別に賢くなくていいな、とも思う。結局のところは。