TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

批評について

俺はやっぱり自分のなかの「批評」を終わらせるために批評をやってるんであって、批評を続けるために批評をやっている人とはやっぱり違う、と思った。そりゃ後者のほうが偉い。自分よりも世界のことをちゃんと考えている感じがする。けれどそうはなれない。

 

批評とは何か?なんて言い出すと大変なことになるけども、いま自分が取り組んでるベストハンドレッドやら同人誌用のインタビューのことを念頭において、「対象を感覚的に理解するのではなくて、説得的な言葉と論理をもって、抽象化・構造化を用いながら解剖しようとすること」を仮に批評と呼んでみる。すると冒頭のような思考が出てくる。

 

批評的な言葉遣いをして「何々派」とか「何々系」とかまとめようとしたところで、煎じ詰めれば世にはたくさんの人生があるばっかりなんだなあ、とさえ思う。それともちろん人以外もね。

 

つまるところ、本当のところは理解なんてできてないものを、持ち合わせの言葉と論理だけで理解したつもりになるのが怖いのか? 批評や読書を、自分の具体的な生命力・生活力のなさから目を背けるための逃避の場にしているのを自覚しているからか?

 

部屋をインテリアで彩ったり、食材の形や味を楽しんだり、小説を書いたり、身近な人のことを思ったり、いま自分にとって大事なのはそれだと気が付いている。したがって、いわゆる空中戦をやることには大いに罪悪感と疲労感を抱くようになっている。

 

情報の奔流にのまれず、ダンディズムに酔いしれず、静かに目をつむって、過去と未来のすべてを今からでも"訂正"できるだろうか。