TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

切れ端等

勉強:

危険なので、そろそろ一旦やめるべき頃合いなのかもしれない。世の親御さんは子供に「勉強しろ」と言うけど、それは勉強の真のヤバさを知らないからだ、と千葉雅也が言ってたけども、実際僕の人生が傾いているのだってひとえに勉強のせいにしてもいいと思う。勉強(との接し方を誤っている自分)のせい、だけど。正確には。

 

じゃあそこまで言うくらい、君はたっぷり勉強してるんだろうね?とかって訊かれるとつねに「いいえ」としか答えられないのもまた難儀。なぜなら、いくら何を読んだって、上には上がいるから。……と、「上」なんてものを想定してること自体、勉強の名を借りたマチズモ的な何かの現れなんだけど、しかし実際強キャラはいるしなあ。とか考えてしまうこと自体が罠にはまってるんだろうか。わからん。

 

あと、何が難しいかって、こと勉強においては「純粋な好奇心」と「義務感」とが截然とは切り離せないところ。いや人によってはちゃんと前者だけでいけるんだろうけど(そういう人を何人か知っていることは、僕にとっての救いでもある)。好奇心で始めたことなのにいつしか義務感が出て来たり、だけどその義務感ゆえに、なにかを達成すれば心地よかったり。なんてわがままなんでしょうか。

 

メタ認知

いろんなことについて、メタ認知を働かせること自体は大切でしょう、けれど、そのコミュニケーションが特定の様式(「教える/教えられる」とか)をとっているんじゃない限りは、メタ視点であまり物を言うべきではないと思った。その視点を前面に出した時点で、そこには、「上に立つ」という文字通りの暴力性が含まれるから。メタ的な分析の後で、「俺はこう思ってる」っていうのがセットならいい、というか、セットであってほしい。ぬくもりのために。

 

笑い/コミュニケーション:

今まで、人とまともにコミュニケーションをとれた試しがないのでは、という疑いが出て来た。というのは、すぐに「笑い」に持っていこうとしてしまうから。関西的なボケ・ツッコミ様式からは意図的に逃れようとしてるけども、そもそも前段の部分でダメなのなら意味がない。ユーモアというのはメタ認知とも関係してると思うけど、「ユーモアを発動させないこと」に耐える、という訓練が必要で、ただきっとそれはとてもしんどいんだろうな、と思う。

 

活動:

どうも、舞台(比喩的な意味合いも含む)の上にいて視線を一身に集めるか、もしくは、畑だとか自然の中にいて人間の視線からはすっかり逃れるか、その二極が性に合うらしい。リモートワーク含めた都市生活で、中途半端に作業だけしてるのが一番いけん、と。誰から感謝されたいのか、とか、誰に褒めてほしいのか(当然「自分から」って場合もありうる)、とか、ちゃんと考えなきゃなと。もしかしてみんなこれって当たり前にできてて、自分だけできてないんだろうか。

 

美:

これが一番問題というか、まずい。具体的にルックスがどうとかってよりは(それも深く関係はしてるが)、概念として。哲学がよくやる分け方の「真・善・美」で言うなら、自分はロジカルに「真」を求めると思いきや、結局は刹那的な「美」のほうに傾く奴なのだ。お祭りに花火が打ち上げられれば万々歳。でもどうやらそれじゃダメらしい。ここをどう突破すればいいかは、いまだ分からない。分からないことばっかり増える。