TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

なにかを言うことと言わないこと

ネット・リアル問わず(どちらかというと当然ネットで多いけれども)、近頃「それってわざわざ言葉にすることなんだろうか」という気持ちを抱くことが多い。

 

自覚があるけど、僕はかなり「思っていることを言葉にしない」人だ。鍵をかけたアカウントは一応あるけど、それだってひとつの公共圏として理解してるから滅多なことは言わないし、せいぜい紙の日記に放出するくらいが関の山。だから「単におまえの基準が極端なだけだろう」とか言われたらまあ、その通り。

 

これはなんなんだろうか。言葉の力を信じすぎているのか。自分の言葉が他人に解釈されて、「この人はこういう人」と記号的なレッテルを貼られるのを恐れているのか。思い当たることはいくつもある。

 

とにかく「ぶっちゃけトーク」みたいなものが苦手なのもこれと似た話。仮にその場に、自分と相手の2人しかいないとしても。人間がそこに2人いたらそれはもう、「完全に」プライベートな空間、ってことはありえない。リラックスの度合いは人や場合によってもちろん変わるにせよ。

 

だから、「演技をしていない本音のコミュニケーション」なんてものも信じていない。コミュニケーションはつねに演技でしかありえない。と思っている。定義上。

 

まあそんなわけでとにかく、誰かの何かの発言を見たり聞いたりするたびにいちいち疲れることが多いので、SNSも見ないようにしたいし、ここに書いたような問題を解決してくれるような(ていうか、解決はしないにしても何かヒントになるような)ものを古い本とかに求めるような生活をしばらくしたい。僕は別に文学や哲学やサブカルそのものを愛してるんじゃなく、徹頭徹尾「自分のために」そいつらを利用してるだけなので、むしろ解決を求めていくのは正しい在り方と言っていいんじゃなかろうか。

 

よりよい演技をするために、なにかが見つかりますように。