TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

危うきに近寄る

迂闊にも自分で長年蒔いた種が、芽吹き、枝をのばし、醜い花を咲かせている。未来を見据えぬ者には然るべき罰。真黒な暗愚の君子蘭、太い茎がなかなか切れずに枯れるのを待つ。待っているうちにやがて全部が終わるなら、はなからその葉は心中道具にでもしておくんなせえとも言いたくなっては口をつぐむ。口をつぐめば今度はなにかを話せと自家撞着の打擲沙汰。待てど甘露の日和も無し。/

 

男性性だとか、マウンティングだとか、マンスプレイニングとか、っていう言葉をわざわざ使わなくてもいいんだけど、要するに「人からすごいと思われたい」って欲望をどう抑えるか、にみんな苦労してる。社会的成功とかにさほど関心もなく、知識が豊富ならえらいわけでもないし、、と言ってる自分だって今この時も承認欲求には囚われている(朝ドラ『スカーレット』の、戸田恵梨香松下洸平の関係性とかね、思い出しては自戒したいが)。かといって、何に対しても「すごい」と思わないってのも、それはそれで人と話が噛み合わんし、なんなら「バカにしてる」とか思われることだって経験上ある。むずかしい。いっせーのせ、で、妬みや、焦りや、そういうの全部なくしてもらえんかね。そんなんじゃもはや人間が人間じゃなくなっちまうだろ、ってあなたは言うでしょうか。/

 

みうらじゅんの偉大さについて考える。世間的にというよりは、俺にとっての。ある研究者の人いわく、仏教の無我というのは、ほんとに自分がないんじゃなくて「自分ってのはつねに暫定的なものなんですよ」ってことらしいんだけど、だとしたらみうらじゅんの言う「自分なくし」はまさにそれだ。親孝行プレイとか、自分に暗示をかけてのゴムヘビ集めとかも。かと思えば、糸井重里に彼がつけてもらったキャッチコピーといえば「見苦しいほど愛されたい」で、実際「幼少期から、人に喜んでもらうためになにかを発表してきた」とよく言っている。承認欲求を単純に否定するでもなく、かといって利己的なほうにもいかない、あの恐るべき境地には学ぶところがたくさんある。ほんとに、たっくさんある。と言ってるだけじゃいかんのだけど。