TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

桜のシュガー(未発表ver.)

寒い寒い夜の車道 ちぢこまって耐える
カラカラの胸とケット

もうじき桜咲く 散ってしまいそうな
僕の代わり 春風駘蕩

浮かぶイメージ 例年のきらめき
失われてりゃ センシティビティもオフで

華やぐ並木と 軽やかすぎる君
半歩先のカカト 追いかけたいよ
散らした青春たちと たわむれたいのに
まだまだ冷える まだまだ来ない

鳥かご?

京の都が山に囲まれた鳥かごなのなら、ビルに囲まれたこの東京は? と一瞬考えた、けれど考えるまでもない、ここには牢獄の比喩がよく似合う。きっと無意識がそう言っている。

 

批評とは、無意識を白日のもとに晒す行為である。小説とは、無意識を意識・無意識の狭間に閉じ込めた世界の構築である。どちらが偉いわけではないけれど、僕はたまたま両方をやるので、否応なく自分の無意識と向き合い続けることになる。

 

目をあけたままなら逃れられない牢獄も、目をとじた虚構の解放区にいれば気にせずいられる。なるべく目を背けたままでいさせてほしい。

ちょっとの合間に

いつも23時から始まるドラマ『恋する警護24時』が、今日は23:30~らしく、30分空いたので短くブログでも、と思ったが、ぼーっとしているうちにもう23:19になっていた。だめじゃん。

 

最近は時間の流れがほんとうに早い。この体感を遅くすることがもしできるんなら、どんな修行でもやってやるぜと思う。いままで蔑ろにしてきたサイエンス的な知識だって詰め込んでやるぜ、とも。

 

時間がどんどん過ぎてしまうことがいちばん恐ろしい。逆に言えば、それを恐れているようでは、いわゆる悟りの境地からはもっとも遠いということでもある。過去をただの「過去」として、そんなに思い入れを持たずに見れたらいいんだけど。

 

たとえば、僕の感覚的には「2014年」ってまだけっこう最近なんだけど、そうじゃない人もいるでしょう。だって2014年はポルノのシングルで言えば『俺たちのセレブレーション』ですよ。最近の曲じゃんそれは。実人生で見れば高校3年生。それも最近。

 

まあこの先ずっと、全部が最近のまま生きていくんでしょう。正しいパースペクティブなんてものはやってこない。

 

本当は芸術とは何か?とか、コンテンツとして何かを作る目的とは?とか、俺のありがとうは本当に感謝の表現なのか?とか、いろいろ腐るほど考えちゃいるが、まあドラマが始まるんで。

 

いま23:26です。やればできるじゃないですか、一瞬でこのくらいは文章書けるんだね。中身があるかどうかは別にして。

昔の俺文章うますぎだろ問題

「最近いろいろ迷走してる気がするので初心に帰ろうぜ週間」(謎)ということで、中学時代の自分のブログの文章なんかを夜な夜な読み返しているのですが、もうこれが面白いのなんの。やばい。

 

(いや、さすがにテンションが意味不明だったり、笑いの取り方がいにしえのインターネットという感じがしたりはするので、いまや人様には見せられないんですが。。)

 

で、その面白さがどっから来てるかというと、たぶん「ロジカルに書いてある」点に尽きるんですね。モンハンをやってて起きた面白い事件とか、日常の笑い話とか、話題を伝えるにあたっての順を追った説明がいちいち上手だし、読みやすい。ぶっちゃけ今の俺よりもロジカルシンキング力が高いとすら思う。当時の自分はSNSを今ほど見てなくて、人のブログをはじめ、まとまった分量の長文に触れる機会が多かったので、なんかやっぱりそういう環境って関係してるよなあと。

 

もうひとつ大事なこととしては、「全体的にやたら明るい」。これは『逆鱗日和』の大塚角満さんやアメブロの仲間たちの明るい文体に影響を受けてたからです。逆に自分がいつから暗い文章を書くようになったのかが分かんねーぜ。きっと文学部のせいだと思う。

 

でもわりとまじで、今の自分はあの頃に比べて凝り固まってるなあ、と反省しました。なにかの文章を書いたり喋ったりするときに、「文学」「批評」「SNS」「現代カルチャー」みたいな要素を、知らず知らずのうちに脳裏に置いたままやっちゃってたというか。本当はもっと全部が自由でいいはずなのにね。

 

冴えないあの頃の俺に、お水で乾杯!という夜なのだった。

随想、文フリのあとで

今日、よい演劇を観て、いいなあと思った。その後、こちとら小説だなんてかったるいクソ複製芸術をいつまでやればよいのか、馬鹿ではないのかと思った。

 

演劇ならば、少なくともそこにいた数十人のお客さんには、何かを届けられたことが確定している。その結果の大小や中身はどうあれ。生身の身体による熱、みたいなものを指して「何も伝わっていない」と言うのはちょっと難しいと思う。

 

他方小説は、買ってくれたとしてもおそらくは読まないで放置するのが大半である。というか自分もそう。その代わり、数十年後とかにふと本棚から取り出して読んでくれる可能性がつねにある。ライブではない複製芸術とは、つねに時限爆弾のようなものとしてある。

 

ただ、人知れず時限爆弾をばら撒くような地道な社会改良運動を、いつまでやれるのかは甚だ疑問になってきた。そんな運動は即時的な喜びを伴わないからである。

 

 

これにはあらかじめ自分で突っ込んでおこう。小説を「社会改良運動」だと思っているのがそもそもの間違いだろう、と。

 

まあそれはそうなんで、そりゃ気楽にすべて自己満足のためですと開き直れたらきっとハッピーなんだけども、元来の性質上、そして受けてきた教育上、どうもそうはいかない。

 

ただしここに幼稚なねじれがあるのもまた確かで、「社会改良」と言っても別にストレートな(2010年代以降のいわゆる「ポリティカルコレクトネス」的な)啓蒙をしたいのではない。だから突き詰めていけば「自分の思うところを分かってほしい」という、わりと矮小な響きの願望に落ち付くんだろうとは思う。

 

いやいや。「分かってほしい」だなんて、それが一番難しいんじゃん、と、僕はここでまた自分に突っ込むことになる。

 

 

結局「完全に分かり合う」ことができるのは過去の自分や未来の自分だけであって、人に期待しても仕方がない。と思っていたら、ちょうどあのちゃんがそういう歌を歌っていた。

 

あのちゃんを考えるということは、今の社会を考えるということである。みんな自分が普通だと思いたいから、あのちゃんの変な部分を批判したり、嘲笑ったり、どうせキャラなんでしょと言ったり、「不思議少女系」なんて括ったりするのだ。

 

けれどそれら全部が「普通」の側というマジョリティからの視線にすぎないのだと、あのちゃんのアティチュードやふるまい自体がそもそも喝破してるわけじゃないですか。僕が感心し、共感しているのはそういうところだったりする。

 

で、話を戻すと、やっぱり「普通」の側の人に、何かを分かってほしいだなんて思っちゃいかんのだ。しかも批評という病、あるいは文学という病は、人とは決して共有ができない。病とはそもそもそういうものではなかったか。

 

だから、これからも愚直に生真面目に「文学」やっていたいのなら、社会のほうなんて向かないほうがよいのかもしれない。いや社会のほうを、他者のほうを向くべきだ、という「正しい」指摘をされたとしても、決して耳を貸してはいけない。

 

とにかく、どうやってこのまま続けるか。文フリ京都を終えて、最近はそればかり考えている。

イノセンス

具合がすこぶる悪い。部屋から出られずにいる。どうも胃腸炎らしい。クリスマスとはつくづく縁がない。高3の時分の12月25日は、持病のリハビリで隣駅へ行ったものの予約時刻をすっかり勘違いしており、数十分うろうろと歩いては時間を潰した。曇り空の夕暮れを照らすクリスマスツリーが物悲しくも綺麗であった。これ以降、クリスマスの思い出というのは特段ない。

 

少なくともパソコンを触れてはいる以上、病人の中では比較的元気な部類に入るはずだが、こういう時はぼんやりとテレビを観るに限る。昨日は今田耕司小泉孝太郎が結婚願望について語ってはヒロミと藤本美貴に突っ込まれ、今日は明石家さんま大泉洋が北海道を旅していた(これは再放送)。スタイルが古かろうが何だろうが、頭を使わずに観られて面白いのでテレビは良いと思う。ただし今やっているらしいM1というのは、どうも敷居の高いハイカルチャーという感じがして未だに観れずにいる。

 

DOESに、風邪を引いたときのことを書いた一曲がある。『イノセンス』というタイトルは慧眼だと思う。具合が悪いときは余計なことなんて考えていられない。その素朴さが、バンド自体の持つシンプルさとよく噛み合っている。後悔しないために感じるまま、イノセンス。元気になってしまえばまた無垢ではいられないのかな。だとすると、「元気」っていうのはそもそも何だろうか。

From POPMAN'S WORLD

詳しくは紙の日記をご覧ください!俺しかご覧になれないけれども!という方針なので、ざっとしか書けませんが。

 

武道館ライブたのしかったー。帰る場所があって幸せだと思った。

 

このあいだFSN歌謡祭で共演した竹内涼真くんが登下校のときに全力少年やらガラナを歌ってたらしいよ、というエピソード。俺だって、歌ってこそいないが聴いていました。晴ときどき曇とか、時間の止め方とか、ユリーカとか、雫のアコースティックverとか。

 

スキマスイッチをぐっと好きになった時期、つまり中2~高1くらいの時って、インターネットを一番好きだった期間とかぶっていて。そのときと今とで、何が違うか?と考えたとき、やっぱりもっと昔みたいに閉じこもってみたいと思った。つまり人のことを気にしすぎないということ。それが逆に、素直な真心みたいなものをかえって取り戻すことになるんじゃないかと。

 

しまじろうのテーマソング『コトバリズム』が言う通り、「ココロとココロのスキマには、僕たちをつなぐスイッチがある」と。まだ間に合うんならば、それを素直に信じてみたいと思った。