TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

肌を焦がすような

いま、5月の文学フリマに出す文芸誌(『現代人』第二号)の準備をしている。というか、重い重い腰を上げてようやっと準備を始めた。

 

同人活動で文章を書くのはそれはそれで難しい。僕は商業デビューとかに興味あるわけじゃないから、もし完璧にチューニングされたウェルメイドなものを読みたいって読者がいたら「そんなら商業媒体を読めばいいじゃん」とか思うし。かといって、あまりにも独りよがりだと、お金を払ってくれる人に申し訳ないし。

 

あとほんとは小説やエッセイ以外にも、批評やら、座談会やら、あるいは研究者や異ジャンルの人との対談やら載せてみたいが、まあそれはまた次の次に。でも5月のやつも面白くなりそうです。

 

なんにせよ、こんなにやる気の上下動の激しい面倒な奴にも、共に戦う同志がいてくれるんなら、その場を守っていきたいと思う。

 

ここ半年ほどの僕はなんかもう、「自分はもう文学なんて楽しめない」とか、「小説なんて書いても仕方ない」とか、口を開けばネガティブばかりの野郎だったが、そういうモードからも脱しつつある(と、嘘でも言っていく)。

 

過去の積み重ねを基にした自己分析は重要だ。けれど、「俺はこういう奴なのだ」と自らをカテゴライズする言葉は、時に自分を縛る呪いにもなってしまう。

 

過去という物語を大事にすること。しかし、なおかつそれに縛られずにいること。どうやって2つを両立できるのか?なんて考える。

 

いやいや、考えちゃいかん。あくまでも軽やかに。いまやるべきは他にある。