TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

君の一所懸命な筆跡へ

ポケットの中、あのころの自分の痕跡を探すように机の引き出しをあければ、在りし日の読書日記がそこにある。ネットでも紙でも、昔書いていた文章がすぐに見つかるところは自分の几帳面さに感謝している。(Twitterアーカイブ残しときたいけど、データDLしてもなぜか上手くいかないので、結局地道にキャプチャするのが良さそうだと思っている。)

 

2018年~2019年ごろ。1冊に1ページがあてがわれ、それなりに丁寧な文字できっちりと感想が記されて、それがなんと1年半くらいも続いている。すげー。そしてブログやnoteと違って自分以外の読者がいないためか、一切のパフォーマンスなく素朴にいろんな感情が書いてある。池波正太郎の文章に憧れたり、出口さん(出口治明氏)の話に感心したり、源氏物語の展開にビビったり、石原千秋の繰り出すフランス現代思想系の話にクエスチョンマークが浮かんだりしている。

 

今はきっと本読んでも、こんなにいろんなことに一喜一憂できないなーと。それは僕が批評やら何やら多少勉強したからっていうのもあるだろうけど、もっともっと普遍的に、人間は歳をとってくると何かを「神」だと思うことが難しくなってくるんじゃなかろうか。神というかまあ、憧れや感動と言えばいいんだけど、そういうものが減っている。何かを見たとしても、頭のなかで勝手に抽象化・構造化してしまって、自分の既存の引き出しのなかに収めたり。

 

だいたい人が一生のうちに感じられる喜怒哀楽の総量って、人為的にどうこうして増やせるもんじゃないような気もする。これは去年小説を修行のようにたくさん読みまくっていたときに実感した。物語を摂取しまくり、最初のうちは心動くものもあれど、やがて淡々とした作業になっていき、構造の分析なんかはできるようになるんだけど、あれ?俺が物語好きなのってそういうことだっけ?違くない?と。

 

とすれば。いま手元にある読書日記のなかの、とても生き生きとしたあの頃の俺が、いまの俺の分までいちいち心を動かしてしまっているんなら、なんだかもうこちとら一種の諦めに傾いていくしかないのかしら。