TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

beyond the words

最近のつぶやき、というか、脳内のTwitterでつぶやいたやつ。ブログのコンセプトにも合ってるでしょう。この記事自体も、仰々しくシェアはせずひっそりと。

 

🐤人って、「新しいもの」なんてほんとに求めてるんでしょうか?そこが疑問。とくに日本では。

 

🐤なにかを言ったり書いたりして、それが人の目に触れた瞬間、つまり言葉が認識された瞬間、そこには何らかの意味が生じる。で、今はその「意味」がとーーっても嫌なので、なにもしたくない。言葉は意味を伴ってしまう。そこが弱いし、全体的にコンプレックス。これが言葉でなく、音だとか、図像だとか、あるいは身体を使ったパフォーマンスだとか、なら必ずしも意味は生じないのかもしれない(批評ってのは逆に、そこに意味を見出すイケズな営みだけども)。結局そういう問題なような。畢竟、剣道もしくは演劇(時代劇に限る)がしたいね。シュール系コントでも良いが。

 

🐤インスタに楽しげなストーリーズをシェアしてる人はわりあい多いもんだけど、「楽しさ」って感情はそもそもシェアできるんでしょうか。できないんじゃないか。ていうかインターネット空間で「シェアする」って言うときに、我々は「情報」以外の何かをシェアできるのか?オフラインじゃないと結局は時間も空間もシェアできないわけだし。変な言い方だけど、オンラインのシェアによって、オフラインのシェアのための種を蒔いてる、のか。

 

🐤人の言う「必読」はだいたい自分にとっては別に必読ではないので、無視して良い

 

🐤こないだどっかでも喋ったけど(YouTubeか?)、主君に忠義を尽くす、というのに憧れる。しかし子育てってもしかしたらそれに似てるのかな。でも子供じゃどうしたって、「父的なもの」として君臨はしてくれないわけでしょう。そうじゃなく、わけのわかる、ある圧倒的な秩序の前に膝を屈したいの。ポストモダンの社会ではそんなもんが(原理上)絶対に見つかりっこない、ってところも込みで、想像の快楽がある。

 

🐤人の名言の引用だとか、RTだとか、ふつうに嫌だなとは思うわけですが、ざっくり言えば人文学自体、そもそも成り立ちからして「人の名言の引用」で成り立ってるようなもんなので。人文学の根本的な呪術性というか、胡散臭さもそこにある。それが世間的に意味を持たなくなっているのは、じゃあ果たしてほんとに「悪いこと」なのか、一考の余地はある。個人的には、これはベストハンドレッドで何度か言ったような「昨今のコンテンツから"超越性"が失われてる問題」とおんなじことだと思うので、やっぱりそういう変な呪術性はあってもいいんじゃんと。

 

🐤コロナ以前の「身体を使った」就活をして、いまの会社にいるわけだけど、仮にZoomの就活だったらたぶんもっと全然失敗してると思う。その場にいることによる謎の説得力、みたいなもので生きてきた自覚があるから。だから学生時代、ライター仕事でインタビューするとかってのは本当よかった。と、こう、上の方でも剣道だなんだとか言ってたけど、自分の過去をどんなふうに束ねられるか、というフェーズにいるのだ多分。

 

🐤なにごとも熱しやすく冷めやすい自分を顧みながら、とにかく、飽きないように飽きないようにと願い続ける。欲望をコントロールするのはむずかしい。願うだけじゃなくて、部屋でひとり呟いたりもしてるんですよ。それだって所詮は言葉なわけだけど。何に対して「飽きないように」かって、そりゃ今愛しているすべてのことに。