TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

創作から遠く離れて

🐤どうも。夜半にこんな場末の文章を読んでいるあなたに乾杯。酒は手元にないので、iMUSEです。知ってますか?イミューズ。最近好きな飲料です。健康に良さげなテキストをパッケージ表面に纏っているので、飲んでてそんなに罪悪感がないやつです。ちなみにいつもこのブログを書いてるときは、地の底のさらに奥にある血の池の枯れた跡みたいなところまで精神的には落ちているわけですが、今日はそんなことはありません。その感じは十分に伝わってますでしょうか。

 

🐤最近「創作」ってなんなん?と思っています。よく分かりません。創作。SNS以降と言えるかどうかは知らないけども、近頃とにかく随分よく聞く言葉です(「表現」とかもね)。noteってサービスはユーザーのことを「クリエイター」と呼び、こちらの機嫌をとってきます。あなたも「創作」をしてみよう、みたいな本も書店にたくさんあります。

 

そんなわけでクリエイター界隈は「創作」って言葉にやたら執着を持ちがちだけど、逆に、「創作じゃないもの」なんてこの世にあるんでしょうか。その人の人生を生きている時点でそれはもう「創作」なんじゃないでしょうか(キャラクターと呼んでもいいかもしれません)。「創作」と「現実」の二項対立があるのだ、という考え自体が罠なような気もしてきます。

 

たとえば本を読むこととトークイベントを観ることは、僕の中ではわりと近いものです。どちらもまず情報の集積であって、後者のほうはキャラクター性をより感じられるものです。じゃあトークイベントは創作なのか?創作だとしたら、創作になりうる会話とそうじゃない会話の線引きはどこか。むしろあらゆるコミュニケーションは創作なのではないか。

 

ある成果物や行為のことを、ふつう何をもって「創作」と呼ぶかというと、「創作者の色をどれだけ出せるか」「正解があるかどうか」にだいぶ依ってきます。たとえばデータをエクセルに落として、それを整理するような作業は一般的にはクリエイティブではないとされます。そこにはれっきとした正解もありそうだし、正解に辿り着くための最速の手順もありそうだからです。

 

ただ、このあたりからもうすでに疑問は出てきます。まずコンテンツって、作者の色がついてればついてるほど「良いもの」なんでしょうか。その考えは、作者の固有名に大きな何かを見出す権威主義的な人文学イズムみたいなものを内面化してるだけじゃないでしょうか。

 

だいたい「自分の色」なんてものをほんとに我々は持ってるんでしょうか。なにかのパッチワークを自分の色だと勝手に思い込んでるだけであって、そのパッチワークの仕方まで含めて、自分の意思がどれだけ介在してるかは実際怪しいものです。(あ、こういう話になってくるんなら、今まで興味を持てなかった自由意思のあるなしの議論とかもちょっと読んでみたいなと今思えました。やったね。)

 

それに、世間的に「正解がありそう」とされているものにしても、言うほどほんとに正解があるんでしょうか。また作品それ自体だけじゃ価値がなく、受け手がどう感じるかによって初めて意味が生まれるのだという考え方もあります。だとすると、作品の本質はコミュニケーション行為にあるのであって、作品自体はその媒介に過ぎないとも言えます。ここはまあ、「創作」を経由しなきゃ伝えられないものだってあるんだとか、「創作」のプロセス自体が快楽なんだとか、いろいろ言えるっちゃ言えますけれども。

 

んー。整理せず、思いつくままに書き進めてきたせいで、よく分からなくなってきましたが。言いたかったのはつまり、「あらゆる創作よりもみかんが偉い」ってことです。続きはまた今度。書かないかもしれません。眠いので今日は寝ます。どんな雑な終わり方やねん。