TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

キャラと諦めについて

「人間/キャラ」、という、よくわからない二項対立っぽいものがこの世にはあります。たとえばよくありそうな議論としては、現実の人間を「キャラ」=類型的なものとして捉えるのはけしからんことで、人間を「人間」=複雑な奥行きを持ったものとして捉えるほうが良いんだと。

 

そりゃそうだろと思うけども、一方、そこで見落とされてるキャラ化の効用みたいなものに関して僕は考えてしまいます。もし誰かの言動が自分の考えに反したとしても、「まあこの人はこういう人(キャラ)だからね」という枠組みを設けることで、僕たちはその人物にやたらと期待せずに済む、つまり適度に諦めることができる、のではなかろうか。

 

人間を人間として見るというのは、えらいことだし、意識も高いと思います。ただそれは同時に、本音でしゃべれよという目に見えぬ圧力だったりとか、「人間どうしなのだから」細かに思いやりを持って接するべきだ、とかいった道徳的な規範や期待のようなものを呼び込むことにもなる。相手が「人間」である以上、その相手の言動は基本的には真に受けるべきだからです。

 

もっと広く言えば、いまの時代は、誰かの発言や気持ちをあまねくシリアスに受け取ること、真に受けることが善とされています。現状、それが人間の目指すべき思いやりだとされているし、そういうことの積み重ねによって世界は良くなると思われています。

 

そんな流れにも、基本的には賛同はします。とはいえ、こうなるとどうしたって、抜け落ちるものもある。人をキャラとして、距離をもって見ること。真に受けずに笑い飛ばすこと。シリアスにならないところで考えを止めること。僕がみうらじゅんについて最近考えてるのはそういうことです。あと夏目漱石とかも。

 

結論。キャラか人間か、という二項対立ではなくて、「さしあたりキャラとして見ておいて、場合によってはその奥にある人間的な部分とも接する」くらいの、いい加減な感じで良いんじゃねーのと、現時点での僕はこう考えます。現実の問題から目を背けるためではなくて、我々の認知自体を考え直すために(ってことは、ここで言ってるのは単なる夢見がちな理想論ってことです)。

 

言い方を変えれば、コミュニケーションに関していろいろ諦めたいし、逆にまわりの人に対しても、もっと諦めてほしい、と思っています。人間、きっと所詮そんなに奥行きなんてないって。僕もそうだし。君も。