TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

カジュアルなぼやき

重要な話だとか正しい話なんてのは、要するに分かる人にしか分からないんだから、そう簡単に言葉にしちゃいけない。百も承知なはず。「分かってくれるに違いない」ではなく、「『きっと分からないけれど、しかしそれでいいんだ』ということを分かってくれるに違いない」と思っているんだけど。そんな願い自体、だいたいは徒労の種だと知っている。だから基本的には口をつぐむしかないのだ。むなしいね。偏差値なんて一息に燃やしちまえ。

 

それと当然、俺は自分なんてまだまだ勉強不足だと思っているけれど、まあ勉強なんてするもんじゃないなと思う。なにかの文脈を学んだり、論理の展開の仕方に習熟したりすればするほど、世の人たちがいかに雑で適当なのかを思い知る。「勉強すれば人生が豊かになる」みたいなこと言っている人たちは、おそらく自分にとって都合のいい勉強の仕方をしてるだけで、実際そういう仕方もある。ただしそれは少なくとも、俺がやってるのとはまったく違う。違うものは違う。意味があると思うからやってんだけど、でもまあ疲れる。

 

 

「若い世代はパソコンにも慣れてるしテレワークにも適応している」みたいな意味わからない言説。なんなんだろうか。やらざるを得ないからやってるだけであって、実際、若い人にコロナ禍が与えているメンタル的な影響はものすごいんだってニュースもたびたび見るじゃないか。見ますよね。

 

俺も御多分に漏れずメンタル的にはたいへん微妙である。最近思ったんだけど、なんだか人と会ってないとダメみたい。もっと言えば「自分が何のためにこの作業をやっているのか」という動機づけの部分が自分にとっては重要で、わけても「目の前の相手とコミュニケーションをとって、喜んでもらえる」みたいな直接的な動機づけが一つあるだけでだいぶ違うんだ、とも分かった。いまの仕事にはそういうのが一切ないので当然しんどいわなと思う。身の振り方を考えましょう。

 

あー。カジュアルと言いつつそこそこカッチリした文体になっちゃった。きっと今はいろいろと、弛緩するに至らないんでしょう。デトックスも何もないわけです。自由になりたいなあ。