TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

自己満足/SNS批評はどこにあるのか

人間界では「自己満足=悪いこと」とされることが多いけれど、しかし逆にですよ、自己すらちゃんと満足させられない奴に何ができるんだろうか?と。おおよそ近ごろの僕自身のことを思い浮かべての話。

 

たとえば「人の目に触れない紙の日記をガチで書く」とは何か。ありえる読者といえば単に「未来の自分」だけであって、無駄といえば無駄なんだけども、だけど突き詰めればその「自分のためにしかならないことは無駄」という考え方こそが罠なんじゃないか。

 

今だって、本当に自分の中だけで思索にふけりたいのであれば紙の日記に書いとけばいいのであって、こうして文字をネットに放流している時点で「自己満足」以上の何かを求めているわけ。でもほんとはそうじゃなくて、もっと100%自己満足に振りきったことをちゃんとやっていきたい。人間の欲望の形とかについては考察が及んでないので、これ以上のことは別に言えませんが。

 

それにしても、文字をてきとうに連ねてネットに放り投げるってのはなんと楽なことか。いざ何らかの対話が発生したときにも、「特定の誰かとコミュニケーションしたいんじゃなくて、なにか書いといたら結果的にコミュニケーションが生まれただけですわー」とか言えるシステム。無責任といえば無責任。だからこそ中学生のときからアメーバだのTwitterだのやり続けてるんだろう。

 

Twitterといえば、大谷能生さんの『〈ツイッター〉にとって美とは何か』という本が出たので買ってパラパラ読んだけれど、Twitterの名を冠するんならもっと「Twitterのことを」まじめに語れや、と思った。まじで。そういう本じゃないですっていうんなら書名を変えたほうがよかった。とりあえず。

 

ただ、そもそも僕はSNS分析についてはレフ・マノヴィッチのインスタ論とかだけ読んで止まってる奴なので、英語圏とかも含めてちゃんと見れば色々やってる人らはいるんでしょう(いいのがあれば教えてほしいです)。でも日本語では、SNS自体についてまじめに批評をしてる人というのは見ない。というか少なくとも目に入ってこない。摩訶不思議。