TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

なめてんじゃねー

今日はイリヤ・チャヴチャヴァゼ『旅行者の手紙』の読書会をし、その後もいろいろ話して楽しかった。

 

ふと思ったけれど、リアルで人と話していて虚しさを感じることは減ってきた。それは近ごろ話が通ずる人というか、興味関心の近しい人とばかり話しているからかもしれず、要は狭い範囲のコミュニケーションに閉じこもってるといえば閉じこもってるとも言えるんだけど、まずは我が身の平安を確保しないと話にならんので。

 

他方、SNSを見ていると荒むことが多い。詩でも小説でも、あるいは配信番組やレビューやミュージシャンの新譜でも、「なんでこういうものが評価されるんだろう」と思ってしまうようなものがアテンションを集めている。具体的には挙げないけれども、比喩的に言えば「自分自身の振るう刃の力を恐れていないもの」、つまりは素朴な印象を受けるものに関して僕はどうにもやはり懐疑的である。

 

米原将磨さんの表現を借りて言うなら、いまは「執着の愛」に基づく話ばかりに人々が飛びつき、「責任の愛」でやってるようなことは評価されないんだなあとつくづく思う日々であって、なにやら心細くもある。しかし昔と違っていまは、味方が必ずいることも知っている。根拠のない蛮勇だとしても、なめてんじゃねーと思いながら粛々とやってくしかないんだろう。