スマホって便利ですね。出先でこうしてブログを書けるなんて。……とか今さらすぎることを思うのは、今日、かつてのアメーバブログ時代の友人と会ったからでしょうか。
あの頃、まだガラケーしか持っておらず、外ではネットを存分に使えなかった。デジカメで撮ってきた写真をいちいちPCに送って、それをブログで使ったり。
「Z世代」って括りに一応なってはいても、こういう「若干まだ不便だった時代」を語れる世代ではある、ってことなんだなと改めて認識。
まあそれはいいんです。
失恋ソングの聴き方について思ったこと。
失恋ソングって、きっと大体「共感できて泣ける」みたいな聴き方をされることが多いですよね。
ただ、そんなにみんな、手痛い失恋だとか、叶わぬ片想いだとか、ってのを「いつも」抱えてるもんなのか?とけっこう今まで疑問だったりしました。別れで泣けるとかって、じつはわりと限定されたシチュエーションなんじゃないの?と。
で。今日、別れの歌を聴く機会がありました。まあ恋愛の歌です。事情により名前は出せないんだけども、ある雨の日の歌です。
けど、聴きながら僕が思い浮かべたのは、別に恋愛とか関係ない、血の繋がった人のことでした。そして歌詞の内容に重ねてしまったのは、「その人がいなくなった後の自分」です。今はまだいない、未来の自分。
その彼の悲しみを思い浮かべて、「かわいそうだな」「つらいんだろうな」と感じて、それでなんだか涙が浮かんできたと。
なんなら、「話ができるうちにもっと話しておけばよかった」なんて彼はきっと後悔してるだろう、じゃあ後悔しないように、今はちゃんと生きないといけない。という感じで最終的には、その別れの歌から、そっと力をもらいました。
つまり失恋の歌なのに、なんかすごく変な回路で感動に至ってるんです。
それはもちろん、詞の内容だとか表現に普遍性があって、「恋愛」に限らず色々なものに当てはめられるくらいレンジが広いから、ってのがたぶん前提で。
この聴き方の変化は、年齢のせいなのか、それとも僕が「ありえたかもしれない可能性」みたいなことを最近やたら考えてるからなのか分からないけども。
べつに答えだとか、良さそうな理論や仮説があるわけじゃないです。そういうちゃんとしたブログじゃないんで。
ただ、こういう「理屈ではない」謎の感動を作れるだけの表現ってやっぱりすごいなと思うし、たま~に自分で文章やら詞やら作ったりすることがある身としては、その領域に到達しうるものを一度くらいやってみたい。
なんにせよ良い夜でした。12~13年前の自分にお礼を言って、あふれんばかりの花束でも渡したいくらいの。たぶん「要らない」とか言われるんだろうけど。