TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

空談

11月27日

誰かと○○について喋りたい、という欲求がほとんど消えていることに気が付く。

喋ったところで、分かり合えない、ということが分かるだけだから。

その結論を回避できる喋りかたというのもあるにはあるが、まあ疲れる。

疲れることもしたくない。

 

あるいは、はなから、「分かり合える」ことが分かりきっている人とだけ喋るという手段も。

でもこれは単に思想的にいやなので、できない。時間の無駄だと思う。

傷の舐め合いは昔からきらい。

浪人生のときに高校から来た、浪人生で懇談して士気を高めよう的なハガキも破り捨ててしまった。

(うちは半数くらいが浪人する高校なのでそういうイベントが成り立つのだ)

いや、どのみち日のあたる場所からは爪はじきにされるやつら同士、傷の舐め合いはむしろ積極的にしていくべきなのかもしれないし、

それができない時点で、「弱さ」を開示・共有できない男性性、というテーマを僕自身がなんら突破できちゃいない証なんだけど、

少なくとも今は、できないものはできない。

 

分かり合えないもの同士喋るのも嫌、

分かり合えるもの同士喋るのも嫌、

じゃあ何が残ってるかというと、「○○について教えてほしい」というのがある。

それでPodcastなんかを細々とやっていたりもする。

「教える/教えられる」という非対称性が発生すれば、「分かり合える/分かり合えない」という軸からは抜け出せる気がするのだ。

(めんどくさいので議論を深めようとは全然思わないが、柄谷行人が『探究』でしてた話とも関係ある気がしてきた。)

 

ただし、人が人に何かを教えるっていうのはまず手間がかかるし、

ジャンルによってはそれを商売にしてる人もいるわけで、おいそれと誰にでも頼める話でもない。

けれど、自分の好きなこと・得意なことを人に紹介したい、という欲求を潜在的に持ってる人が多いのもまた確かで、

僕はそこにまだ一縷の希望を持っていたりもする。

 

それにしても、世の人たちはどうやって人と喋っているんだろう。