TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

滂沱、散々、枯散文

大河ドラマ壇ノ浦の戦いについて語る人たちのツイートを見ながら、人の命が軽い時代、なにかを守りながら散っていける合戦、そんなの上等じゃないか、うらやましい、平重盛のごとく疾く死なばや。と思ってしまう程度には、全部どうでもいいな、と投げやりに呟いてしまえる今日だった。いやそれは嘘。どうでもいいと思っていれば、むしろ何もつらくないはずだ。逆に何ひとつ、どうでもよくなかったのだ。どうでもよくなかった、ことに気が付いた。ここ以外のどこかで、どうでもよくなりたかった。

 

どこにも行けないことなんてとっくに織り込み済みのはずだった。身ひとつで自由に動ける人ではない。良かれ悪しかれ、地元というぬるま湯あるいはぬかるみに足をとられ、東京の片隅でただ生きてただ死ぬばかり、それまで保守に保守を上塗りしながら惰眠をむさぼっているのがセオリーだと、考えるまでもなく平時は納得しきっているはずが、今日はそうもいかなかった。盤面に駒は揃っている。ただし一歩も前には進めない。そういうゲームをやっている。

 

ふつう、という規範自体がそもそも虚構なわけで、ふつうじゃない場所を目指すなんてのは不毛なゲームだと知っている。知っているけれど、そのゲームにはもう乗ってしまったし、生憎引き返すあてもない。ふつう、と、ふつうじゃない、の二項対立ではない。ただ、ふつう、の濃度調整に失敗している。失敗してる、という認識自体も嘘かもしれない。ビーカーも割れているかもしれない。変な色の液体はしかし気体と成り果てて、どうやら充満している。

 

空気が不味い。不味いのはお前の心だとお前は言うだろう。ガムを噛んでいる。味がなくなればゴミ箱に捨てる。涙を拭いたティッシュペーパーひとつにもお金がかかる。ガムたちを捨てるにもお金がかかる。だから何かをやれ、と、ぐちゃぐちゃになったガムが、満身創痍で訴えかける。それで何度も何度も捨てる。しまいには、噛む前から全部をゴミ箱に流し込む。俺以外の誰かが味わってくれますようにと、水の枯れ果てた砂漠へと送り込む。