TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

空洞たち

誰かへの批判とかじゃなくて、単に俺はこう思う、って話。

 

SNSでもリアルでも、楽しかったことだとか幸せなことだとか、そういうのを他人に発信している人の姿を見ると、僕はもうたまらなく切なくなる。そして、健気だな、えらいな、とも。

 

だって、どこかに灯りを点けるのはそこがそもそも暗いからだ。「幸せだ」という言葉、あるいは「楽しい場所へ行った」というような投稿がされているとき、その裏側にある空洞をいちいち想像してしまうのだ。

 

インスタのストーリーズなんてその最たるもの。みんなしんどいんだな、ということを再確認するための装置。だから、見るためにはそれなりに体力が要る。それで苦手。

 

逆に、米津玄師の『KICK BACK』が良いのもそういうところだと思う。

 

彼がモー娘を――つまり「日本は元気だ」という空元気がまだかろうじて可能だったゼロ年代を――参照しながら「努力 未来 A beautiful star」と歌うとき、(たとえそれを皮肉だと受け取り得るにせよ、)暗闇のなかに光を見出そうとする姿を僕らは見るのだ。

 

言葉や投稿の意味をそのまま受け取るか、あるいは裏(コンテクスト含めて)を読むか、というのは、オースティンやデリダあるいはフロイトなんかを参照しながらよく議論されることではあるけど、まあほんと難しいなと。

 

結局、「そのままに受け取る」「そのままには受け取らない」、双方の可能性を考えた上で、慎重に、その都度、選び取るしかないんだとは思う。

 

ただ、僕は自然と後者の考え方をしがちで、だからこういうくよくよしたブログ記事が生まれたりする、というのは確か。楽しいことはそのまま「楽しい」と受け取ればいいのに、って。俺もそう思う。