TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

二〇一九/口八丁

2019年以降を自分の晩節と呼ぶことにした。決めた。今後あらゆる自分はこの決定に従ってほしい。ここから書くものはすべて晩年の記である。もう誰も自分になにかを期待しないでほしい。能力があるとか言わないでほしいし、何を書けとも言わないでほしい。読めとも聴けとも観ろとも言わないでほしい。まあなんのことはない、疲れたのだ。こう「疲れた」と3文字で済ませられることを長々と引き伸ばして書いているのだから、やはり耄碌したのだろう。/どっどっどっと鼓動が速く鳴っているのを感じるたびに、ああ今もまたこれで寿命を食い潰している、毎日なにかを食って永らえてきた肉体がようやくそれら食い物への罪悪感で悲鳴を上げていると、それはそれは穏やかな微笑みが花を咲かして、やがて冬が来るのを待っている。枯れ木も山の賑わいならば、こちとらこの世を賑やかす程度で十分だから早いとこ枯れ木にさせて頂戴な、と寝言ばかり。/自由死のことを考える時間が増える。平野啓一郎の書いた『本心』という小説を読んだからかもしれない。はっきり申せば、自由意志で死ねるならばなんて素晴らしいだろうかと思う。希死念慮という言葉にはどうも馴染みがないが、死んでしまいたいという心持が常日頃消えないというのはやはりどこか尋常の有様ではないらしい。とはいえそうして不安に感じる以上に、またうまいこと「尋常」を逃れ得たような自分に安心し、眠り、いつも通りの明日を迎える。それ自体まったくもって凡庸極まる。/ムカついたので、ムカついたと言おうと思う。ムカついたと言ったところで何がどうなるわけでもないから、言うのではなく、書こうと思う。書いたところでどうにもならんので、やはり死のうと思った。しかし太宰治の「葉」というやつを読んだら、少なくとも次の夏までは死のうとは思わなくなった。次の夏というのがもうじき来てしまうことだけが問題だった。/ドラマで人が死んでそんなに悲しいだろうか。そんなにつらいだろうか。別にこっちだって近しい人間を亡くしたことくらい何度もあるし、ちゃんと涙を流すことだってできたが、しかし本当はその感覚自体がおかしいんじゃなかろうか。みんなみんないかれてるのに、いかれてないふりをしてるんじゃないか。前世とか来世とか神様とか仏様とか、信じていた人たちのほうが余程まともに見える。何のために生きているんだ。/情報、情報、情報、挟撃、四面楚歌、八方塞がり。情報の海。蛍雪の功を積もうとしたって、明るすぎるLEDで蛍が見えない。/世間で言うキャッチフレーズのような面白さに騙されてはいけない。破天荒な人生というのだって、どうせ後顧の憂いがないから自由にやれるだけなのだ。それを分かりやすく面白く感じてしまうのは単に珍しいからだ。短い言葉で人を騙す広告代理店の人間は悪だと思う。言葉は短ければ短いほど悪であって、だらだら続く散文のほうが良い。/だらっと続く関東平野。起伏がない。抜け出せない。リセットできない。実家を離れてひとり東京へ、というのをやってみたかった。生活というものをしてみたかった。生活。今のところできそうにない。生活をできる人はあまねく強者だ。早くそちらへ行きたい、と思う。それには本当の晩年を待たないといけない。