TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

なめてんじゃねー

今日はイリヤ・チャヴチャヴァゼ『旅行者の手紙』の読書会をし、その後もいろいろ話して楽しかった。

 

ふと思ったけれど、リアルで人と話していて虚しさを感じることは減ってきた。それは近ごろ話が通ずる人というか、興味関心の近しい人とばかり話しているからかもしれず、要は狭い範囲のコミュニケーションに閉じこもってるといえば閉じこもってるとも言えるんだけど、まずは我が身の平安を確保しないと話にならんので。

 

他方、SNSを見ていると荒むことが多い。詩でも小説でも、あるいは配信番組やレビューやミュージシャンの新譜でも、「なんでこういうものが評価されるんだろう」と思ってしまうようなものがアテンションを集めている。具体的には挙げないけれども、比喩的に言えば「自分自身の振るう刃の力を恐れていないもの」、つまりは素朴な印象を受けるものに関して僕はどうにもやはり懐疑的である。

 

米原将磨さんの表現を借りて言うなら、いまは「執着の愛」に基づく話ばかりに人々が飛びつき、「責任の愛」でやってるようなことは評価されないんだなあとつくづく思う日々であって、なにやら心細くもある。しかし昔と違っていまは、味方が必ずいることも知っている。根拠のない蛮勇だとしても、なめてんじゃねーと思いながら粛々とやってくしかないんだろう。

君の一所懸命な筆跡へ

ポケットの中、あのころの自分の痕跡を探すように机の引き出しをあければ、在りし日の読書日記がそこにある。ネットでも紙でも、昔書いていた文章がすぐに見つかるところは自分の几帳面さに感謝している。(Twitterアーカイブ残しときたいけど、データDLしてもなぜか上手くいかないので、結局地道にキャプチャするのが良さそうだと思っている。)

 

2018年~2019年ごろ。1冊に1ページがあてがわれ、それなりに丁寧な文字できっちりと感想が記されて、それがなんと1年半くらいも続いている。すげー。そしてブログやnoteと違って自分以外の読者がいないためか、一切のパフォーマンスなく素朴にいろんな感情が書いてある。池波正太郎の文章に憧れたり、出口さん(出口治明氏)の話に感心したり、源氏物語の展開にビビったり、石原千秋の繰り出すフランス現代思想系の話にクエスチョンマークが浮かんだりしている。

 

今はきっと本読んでも、こんなにいろんなことに一喜一憂できないなーと。それは僕が批評やら何やら多少勉強したからっていうのもあるだろうけど、もっともっと普遍的に、人間は歳をとってくると何かを「神」だと思うことが難しくなってくるんじゃなかろうか。神というかまあ、憧れや感動と言えばいいんだけど、そういうものが減っている。何かを見たとしても、頭のなかで勝手に抽象化・構造化してしまって、自分の既存の引き出しのなかに収めたり。

 

だいたい人が一生のうちに感じられる喜怒哀楽の総量って、人為的にどうこうして増やせるもんじゃないような気もする。これは去年小説を修行のようにたくさん読みまくっていたときに実感した。物語を摂取しまくり、最初のうちは心動くものもあれど、やがて淡々とした作業になっていき、構造の分析なんかはできるようになるんだけど、あれ?俺が物語好きなのってそういうことだっけ?違くない?と。

 

とすれば。いま手元にある読書日記のなかの、とても生き生きとしたあの頃の俺が、いまの俺の分までいちいち心を動かしてしまっているんなら、なんだかもうこちとら一種の諦めに傾いていくしかないのかしら。

批評について

俺はやっぱり自分のなかの「批評」を終わらせるために批評をやってるんであって、批評を続けるために批評をやっている人とはやっぱり違う、と思った。そりゃ後者のほうが偉い。自分よりも世界のことをちゃんと考えている感じがする。けれどそうはなれない。

 

批評とは何か?なんて言い出すと大変なことになるけども、いま自分が取り組んでるベストハンドレッドやら同人誌用のインタビューのことを念頭において、「対象を感覚的に理解するのではなくて、説得的な言葉と論理をもって、抽象化・構造化を用いながら解剖しようとすること」を仮に批評と呼んでみる。すると冒頭のような思考が出てくる。

 

批評的な言葉遣いをして「何々派」とか「何々系」とかまとめようとしたところで、煎じ詰めれば世にはたくさんの人生があるばっかりなんだなあ、とさえ思う。それともちろん人以外もね。

 

つまるところ、本当のところは理解なんてできてないものを、持ち合わせの言葉と論理だけで理解したつもりになるのが怖いのか? 批評や読書を、自分の具体的な生命力・生活力のなさから目を背けるための逃避の場にしているのを自覚しているからか?

 

部屋をインテリアで彩ったり、食材の形や味を楽しんだり、小説を書いたり、身近な人のことを思ったり、いま自分にとって大事なのはそれだと気が付いている。したがって、いわゆる空中戦をやることには大いに罪悪感と疲労感を抱くようになっている。

 

情報の奔流にのまれず、ダンディズムに酔いしれず、静かに目をつむって、過去と未来のすべてを今からでも"訂正"できるだろうか。

サマソニの合間

昨日からサマソニに来ている。やみくもに騒ぐのは得意ではないけど、お祭り事は嫌いじゃない。

 

沖縄の女王のステージに打ちのめされてちと疲れたので幕張の駅近くのそば屋へ行き、よく冷えた山菜そばと、にしんの甘露煮を食べた。食べているうち、幕張はようやく日が落ちて涼しくなってきた。とはいえ歩くと汗ばんでくる。

 

自分の日程的には、あとはケンドリック・ラマーの降臨を待つだけである。

 

いまは不思議な心持ち。特段ぐったりもしていなければ、逆に、ふつうなら味わうべきであろう高揚感があるわけでもない。目に焼き付けようという気負いもない。ことによると、数曲を聴いたところで帰路につくかもしれない。

 

神社にお参りをしに行くときと同じような平熱の静謐さ。自分にとっての神というよりは、ヒップホップにとっての、ブラックカルチャーにとっての、そして人々にとっての。多くを背負いすぎて、神となってしまった男。

 

ならばこちらが立つべきは全体を俯瞰できるスタンドなどではなく、アリーナだ。みうらじゅん流の教え「仏像は座って見よ」と同じように、見上げたいものを見上げることができるのがアリーナという場所のいいところである。

 

というわけで、ちょいと拝みに行ってこようと思う。

 

ちなみに今回観たラインナップとしては、NewJeans、WetLeg、Blur、The Snuts、sumika,Awichといった面々で、とりわけBlurは美しかった。日を改めて何かを書こうにも、その美しさを文字や言葉で表せと言われたらちょっと自信がない。

道楽馬鹿に流離う雌鹿

まあなんつーか、「ほんとの自分とは」なんてしゃらくさいことを言い募っても仕方ないが、仮に自分の原型みたいなものがあるとしたら、そいつはテキトーに絵を描き、PSPで存分にゲームをし、ロックとポップの狭間の音楽をテキトーに聴き、武道を嫌々やり、ネットで愉快な仲間と朝な夕な語り呆ける、っていうそのくらいのもんなんだろうと思う。別に大したもんじゃないし、ちっとも特別なもんでもない。万事シンプルここに極まる。

 

シンプルなことだからこそ見失う。見失った先で誰かに褒められでもすりゃまんまと調子づき、また長い長い迷宮に迷い込む。そうやってふらつく足取りで往く旅は、当然面白いことだってたくさんあるが、「進化を重ねた先の、これがほんとの自分なんだ」という思い込みで、傷だらけの我が身はまた蔑ろにされる。

 

ごちゃごちゃと無粋な論理ばかりの話ならやめちまえ。おまえの文体は、頭は、タイムラインは、いつからそんなにバカみたく小難しくなった?

 

 

今日は渋谷のWWWでDOESのライブを観た。10年来の友人と、「独歩行脚2023 ~流離う雌鹿編~」。そのシンプルで無骨なロックの音や、熱くも力の抜けた飄々とした佇まいが、明後日の方向に行きがちな俺を毎度めいっぱい引き戻してくれる。空気の振動がそのまま救いになるんだから不思議だ。

 

銀魂』のタイアップ曲『バクチ・ダンサー』と『僕たちの季節』の男らしい和風サウンドに衝撃を受け、歌詞を調べて読み耽り、日本語の美しさに打ちのめされたのは中学生の頃である。それから高校のクラスで、『銀魂』繋がりでDOESを聴く友人と奇跡的に出会った。

 

ひとりで初めて行ったDOESのライブは鶯谷東京キネマ倶楽部。キネマ倶楽部の、いかがわしく瀟洒な雰囲気がよく似合っていた。ドラムのケーサクが和太鼓を叩いていて格好良かった。衣装を和風に替えての第2部のはじまり、浴衣を着たベースのヤスの登場ポーズが洒落ていた。『色恋歌』の色気や、当時まだ音源化されていなかった『レーザー・ライト』のダンスロック度合いに驚かされた。

 

ふたりで初めて行ったのは、どこのライブハウスかは忘れたがとにかく渋谷だ。大学受験直前の12月23日。なんか世界地図の国名当てクイズのアプリを友人がやってた。ライブの内容は覚えてないけど、とにかく楽しかったのは覚えている。んで以後たびたび一緒に行くようになってかれこれ9年で、今日に至る。DOESの活動休止期間も挟みつつ。

 

今日のMCも可笑しかった。音楽性と同様に、と言うべきか、彼らは常にどっか抜けていてそこが良い。ヤスが「シーシャって知ってる?」とか「行ってみたいんよね」とか「これからシーシャ来るんじゃねえか」とか言ってたけど、シーシャはもう世の中的にはだいぶ前に来てるだろ。題字を書いたワタルさんの母君が書道でアバンギャルド賞をとった話とかね。

 

(いまの段落の冒頭書いてて思ったけど、「可笑しい」って感覚は今なんだか流行ってない気がするが、大事なことなように思う。特に高校時代に俺が好きだったのってどれも「可笑しい」ことだったんじゃないか。極端に尖ってもなく、作られすぎた面白さでもなく、良いセンスで整頓されたものでもなく。)

 

曲目を眺めて一番を決めるのは難しいけど、少なくとも、待ってましたぞ、と心底思った曲が『僕たちの季節』。それなりのシンプルな秩序のなかに、無秩序とは言わないまでも、ほのかな可笑しみを付け足して新しい世界を見せてくれるようなサウンドと詞になっていて、それは昔の自分がそもそも持ってたモードでもあったわけだし、なによりも、今日の友人はそういう人だから。

 

うそみたいだろ
ありえないだろ
かなり風紀乱れた
君の世界が僕の世界を変えてしまったよ

 

あの入学式の日に俺が緊張しながら話しかけて、彼が今と何も変わらぬ調子で答えてくれたその瞬間、君の世界が俺のこじんまりした世界を確かに変えてしまったのだ。そんなことも思い出しながら聴いてた。

 

さて随分とっちらかった日記になった。こそこそ夜な夜なアメブロを書いてた中学時代の俺なら、このテキトーさをきっと許さないだろうけど(なんせそれなりに力を入れて面白いやつを書いていた)、まあ今回はいいってことで。もう夜も深いし。

 

なんにせよ叫んで笑って何かを取り戻して、ようやく凪いだままに7月を楽しめそうな気がする。

 

あと今日やってた曲たちから選び直して編み直したSpotifyプレイリストも、日記の欠片として作ってみた。暴走ぎみなレイジーベイベー、何も怖くないのに涙が出るけど、感じるままにイノセントに、不安で心配な紅蓮曇天ワンダーデイズを、自分に喝采して過ごすのだ。辿り着くまでか、ダメになるまでいつまでも。

 

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観世音

今日も惨めに探している。体と心をこの現世に繋ぎとめるもの。

 

呼吸が止まる。ひとときの救いで息を吹き返す。その繰り返しで永らえる。

 

繋ぎとめるものは何だろう。自分の力ではどうしようもないゲーム。初めから幕が引かれようとしている舞台。かの崇徳院に比してことさら自由だとも思えない、先の見えない川の濁流の奥深く。

 

倫理の話をする批評なんて退屈。思い返す。いつだって僕がしているのは救いの話だけだった。僕ら、という複数形の主語を隠れ蓑にして。

 

だから曽根崎心中は好きだ。近代人の作り上げた綿密な心なんてものに惑わされず。血染めの悲恋を、あろうことか救いの物語に読み変えて。

 

――"まさに極楽浄土から、いま目の前にあらわれる、我らのための観世音!"

 

小説ならぬ音声芸術の一節を唱え唱えては、その日を今や遅しと待ちわびる。

鳥の鳴く声だけが

蝉の鳴く声はまだ聞こえぬほどの初夏の昼下がり。近所の川沿いのベンチに座る。ちょっとばかり虫に刺されたり、日の光が肌を焦がしたり、そういうことが気にならないくらいに静寂の音を聴く。ずっとずっと求めていた。漂流者にも故郷喪失者にもなれずに、しかしそれでもいいのだと慰めてくれる、草木と風はいつも優しい。

 

数年前もこうしていた。イベントの企画運営かなにかの役を終えては疲れ果て、耐用年数を超えた可動式のおもちゃのようになって同じ場所に座っていた。あれから色々なことがあり、考えていることも随分変わった。寂しくもなる。旧交を温めたいいくつもの顔が浮かんでは消える。実際、徒歩や自転車で気楽に会える範囲から、みな次々と遠ざかっている。自分はここに埋める骨を今日も大事に動かしている。

 

時間が過ぎゆくことが怖ろしい。怖ろしいから文字にする。そして最も恐れるべきは、せっかく文字に残したこの感情さえも、いつかどうでもよくなって顧みなくなってしまうかもしれない未来が来ることだ。

 

雲が風に流れゆくように何もかもが移ろっても、この街がジャングルだった頃から変わらない愛の形を探していられたならいい。

 

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