TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

鳥の鳴く声だけが

蝉の鳴く声はまだ聞こえぬほどの初夏の昼下がり。近所の川沿いのベンチに座る。ちょっとばかり虫に刺されたり、日の光が肌を焦がしたり、そういうことが気にならないくらいに静寂の音を聴く。ずっとずっと求めていた。漂流者にも故郷喪失者にもなれずに、しかしそれでもいいのだと慰めてくれる、草木と風はいつも優しい。

 

数年前もこうしていた。イベントの企画運営かなにかの役を終えては疲れ果て、耐用年数を超えた可動式のおもちゃのようになって同じ場所に座っていた。あれから色々なことがあり、考えていることも随分変わった。寂しくもなる。旧交を温めたいいくつもの顔が浮かんでは消える。実際、徒歩や自転車で気楽に会える範囲から、みな次々と遠ざかっている。自分はここに埋める骨を今日も大事に動かしている。

 

時間が過ぎゆくことが怖ろしい。怖ろしいから文字にする。そして最も恐れるべきは、せっかく文字に残したこの感情さえも、いつかどうでもよくなって顧みなくなってしまうかもしれない未来が来ることだ。

 

雲が風に流れゆくように何もかもが移ろっても、この街がジャングルだった頃から変わらない愛の形を探していられたならいい。

 

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目を瞑る

夜が人に優しいのは、弱き心と一緒に目を瞑って、世の奥底にある真実にめいっぱい怖気づいてくれるからで、そこに向こう見ずな勇気なんてものは必要がない。

 

寝ずに明けてしまった朝は憎く後ろ暗い。行こうか逃げようかと告げる夜を裏切ったような心持ちになる。そうして二度とは元に戻れぬと、心の臓が喚いている。

 

見えている空の色がどんなに違っても、それで心の表面がひりつくうちはまだマシだと思うかい?

 

朝になれば忘れちまうだろう。夜の果てに消えそうな君を忘れるために僕は自分と眠るだろう。

或る現代人の内傷

先般、自分のやっている同人誌用にひとつの文章を書いた。その難物がどうも精神のうちのどこかに甚大な内傷を生じさせたらしく、あれ以来気分がすぐれない。気の落ちたときに書くことの多いこのブログですら、数日ほどのあいだは書こうとしても書けなかった。

 

始まったばかりの同人誌プロジェクトによって自分が一体何をやろうとしているのかに関しては、以後noteにでもなんでも書く準備があるのだが、とにかく、出力して手元を離れたはずの何かが、むしろ離れたがゆえに自己の臓腑を直截に突き刺してくることがある。

 

これを克服するには、次にまともなフィクションをやらねばならない。幸いか不幸か、ある講座の関係によって否が応でもやるべき仕儀にはなっているので、やることはやる。それができなかった時にこそ、ついに終わりの鐘が鳴るだろう。

 

それで次のためにいろいろ考えている。とかく「小説」なる概念はぬるく小綺麗な方向に解釈されがちであるので、人々の脳裏にまばゆい白熱光を刻む一撃を図っている。とはいえ科学的なことには明るくないし、倫理的な問題に抵触するのは面倒が過ぎる。論理と論理の隘路の果てに、何かが見つかればよいが、と思う。

肌を焦がすような

いま、5月の文学フリマに出す文芸誌(『現代人』第二号)の準備をしている。というか、重い重い腰を上げてようやっと準備を始めた。

 

同人活動で文章を書くのはそれはそれで難しい。僕は商業デビューとかに興味あるわけじゃないから、もし完璧にチューニングされたウェルメイドなものを読みたいって読者がいたら「そんなら商業媒体を読めばいいじゃん」とか思うし。かといって、あまりにも独りよがりだと、お金を払ってくれる人に申し訳ないし。

 

あとほんとは小説やエッセイ以外にも、批評やら、座談会やら、あるいは研究者や異ジャンルの人との対談やら載せてみたいが、まあそれはまた次の次に。でも5月のやつも面白くなりそうです。

 

なんにせよ、こんなにやる気の上下動の激しい面倒な奴にも、共に戦う同志がいてくれるんなら、その場を守っていきたいと思う。

 

ここ半年ほどの僕はなんかもう、「自分はもう文学なんて楽しめない」とか、「小説なんて書いても仕方ない」とか、口を開けばネガティブばかりの野郎だったが、そういうモードからも脱しつつある(と、嘘でも言っていく)。

 

過去の積み重ねを基にした自己分析は重要だ。けれど、「俺はこういう奴なのだ」と自らをカテゴライズする言葉は、時に自分を縛る呪いにもなってしまう。

 

過去という物語を大事にすること。しかし、なおかつそれに縛られずにいること。どうやって2つを両立できるのか?なんて考える。

 

いやいや、考えちゃいかん。あくまでも軽やかに。いまやるべきは他にある。

空の井戸/人肌の白湯/熱いシャワー

空の井戸から水なんて汲めるだろうか?と、しきりに虚しく問うていた。

 

けれど考えてみれば、別に、僕はそもそも水を汲みたいわけではなかった。僕にとって大事なのは、空の井戸が、たとえずっとずっと空だとしても、「そのままでいい」と赦してあげることだった。

 

透き通っては光を映し、溢れ出でては渇きを癒す、そんな彼等のようにはなれずとも、天空の花嫁はきっと微笑んでくれるのだ、と。

 

気が付いたのは今日のおかげだ。ひとつ短い文章を寄せさせてもらった素敵な冊子。語らう前夜。雨雲を退ける粋な祭り。そしてその魂でもって何かを変えようとする黒き拳、さらには白く気高いBGMたち。

 

今はただひとすくいの感謝だけを。

ルーレット

ああ、そうだね、まわりで起きる悪いことはぜんぶぜんぶ自分が悪いね?もっと善き人なら、自分と違った誰かならよかったね。

 

歪んだ認知は治らない。現実に囚われる想像力の貧しさが淋しい。いろんなことがどうでもよくなってしまう。来世にベットしてみようにも、賭けるコインが見当たらない。

 

なににつけても、演じ続けることの罪深さ。とても耐えきれるもんじゃない。体のほうも軋み始めたことだし、もうそろそろいいんじゃない?と囁く声。

 

輝ける頃のことはもう思い出せない。夢にも見れない。浮世離れた無頼の報い。

 

鼓動なんて、偉そうに惰性でいつまで鳴らしてるんだろうね?

終電から降りる

終わりのない夜道をいくら歩いても凍えなくって済む季節になった。そっちがその気ならお望みのままに。歩くリズムで文章を少し。

 

新しい映画とか小説とかマンガとか、ちっとも見れない日々が続いている。見てもきっと、その作品自体が好きなのか、それとも「センスの良いこの作品を、こんなふうに評することのできる自分」が好きなのか、分からんなと思うから。

 

本能を抑圧しすぎた。んで意味とロジックにまみれすぎた。

 

いま僕は、プルシットジョブというものに感謝さえしている。意味があることばかりをやり続けられるようには、人間の(少なくとも僕の)身体はできちゃいない。

 

じゃあ意味ないことばっかりやればいいだろと、口で言うのは簡単。けれど、意味のあるなしの判断基準というのは、なんというか、一朝一夕で築かれたロジックではない。もっと動物的な感覚の話だ。だからチューニングには時間がかかる。

 

からしばらくはしんどいんだろう。絶望から醒めるのだって一瞬で、また朝が来れば灼け跡だけが残るだろう。

 

せめて世界の果てで格好つけて朽ちずに済むような、格好つかない花道を敷けたらねえ。

 

夜風がわずかに冷えてきた。道にも終わりはあるみたいだ。