TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

疲れ

人と直接会うってなんなんだろうねえ?文字とかSNSよりもなぜ人はそっちに価値を感じてしまうの? という話をブログで書き始めたら、思いのほか自分の頭がいい具合に回転してしまい、収拾がつかなくなった、ていうか、ちゃんとロジックが通ってないとまずいような展開になってしまったので、やめた。文章ってそういうところがある。基本、「ロジックちゃんとしてますよ感」でスタートしたら、その文章は最後までロジックが通ってないといけない。これはもうこの世の理としてそうなのだ。めんどい。

 

代わりに何の話をするか、、しかし最近なにを喋ってもなにを書いても「疲れた」という結論にしかならんので、実のところ今の俺がなにかを発信する意味というのは、ない。まじでない。たぶん2019年以降の俺の発言はすべて、「疲れた」の3文字に自動で全置換したとしても差し支えない。

 

というこのモードはそして、早く辞めたい。いや、現実的にはいろいろ動こうとはしている。でもその「動く」は決して世界のためでも社会のためでも文学のためでも仲間のためでもなく、今度こそ、俺のためでないといけない、と思っている。文学フリマ東京38に行っても、ゲンロンSF創作講座7期の最終講評会を見ても、つまるところ僕は「世界って動いてるんだなあ」という感想に行き着くのだ。そして、世界に負けずに、俺も動かねばならないという強迫観念にさいなまれる。世界が俺に影響を与える。ならば俺も世界に影響を与えねばならない。「インタラクティブであること」に対するこのオブセッションは明らかに、僕がアメーバやTwitterばかり見て育った人間でありデジタルネイティブ世代だからだ。

 

しかし、世界なんてくだらないものに影響を与えたり与えられたりしてる暇なんて実際あるんだろうか?と考える。ないだろう絶対に。手元にある1冊のビジネス誌、この誌上で尊敬するひとりのSF作家が言っている、「相手の現実を歪ませるほど強く『自分の物語』を信じきろう」と。大事なのは、現実=世界を歪ませることなのだ。「対面でつながること」「コミュニケーションをとること」なんて何ひとつ目的ではない。俺が、俺の物語で、世界そのものを歪ませる。これしかない。そうして今日もAffirmation001の言葉の群れをつぶやき続ける。