TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

シグナル

短編~中編の小説書くときに、わざわざ章分けのために「一」とか書くかどうかは、じつはけっこう重要な問題だなあと思った。奥泉光が冗談めかして、「漱石の小説の『一』は普通の『一』よりもやたらとかっこよく見える」なんて言ってたけど、あれはきっとあながち冗談だけでもない。つまり「一」と書くってことは、「『一』と書いてる俺がいるんだぞ」というシグナルなわけだ。作者シグナルだ。現実的には、文フリとかの規模でいえばとりあえず「この作者」を好きになってもらうしかないのだから、作者シグナルなんてあるに越したことはないのかもしれない、けどなんというか、「一」とか別になんにも書いていない自然さってのも憧れるじゃないですか。やっぱりすべては自然と作為のバランス問題なの。

 

今日なぜかみてきた映画『猿の惑星/キングダム』もそんな具合だった。自然と人工のお話。今作では自然の風景というのは基本的に、かのカスパー・ダーヴィト・フリードリヒのロマン主義絵画みたいな「やべえ場所」として登場していて、なるほど彼らは自然がこわいんだなあと思った。猿の惑星シリーズについては素人だけど、SF的にいろいろ考えてみる余地はありそうだった。ちなみにこの「いろいろ考えてみる余地はありそうだった」というのは普通にそれっぽい逃げ口上であって、そりゃすべてのものに何かしら考えたら面白そうな余地はあるだろうと自己ツッコミしておく。

 

文フリについては、単純にありがたく楽しい機会だったこととは別問題として、けっこう思ってた以上にTwitter広報が大事なんだなあと思った。なんせイベントの規模が拡大してるので、事前に「これ買うかもチェックリスト」に入れてもらわないことにはなかなか始まらない。まあ体験記とか批評系とかならタイトルでびびっときて買うこともままありそうだけど、小説って、試し読みしてもらわないことにはそもそもあまり土俵に立てない。あとはネームバリューの勝負になるが、無理してまで目次のネームバリューパワーを高めようという方針の雑誌ではないんで、名取くんとかが芥川賞をとってくれれば一番早い。話を戻すと、Twitter広報やnote活用はほんとにめっちゃ力を入れてやったほうがいいんだとは思うけど、以前あずまんがどこかに「『Twitterに長時間張り付いてれば勝ち』という世界になるとしたらそれは貧しい世界」的なノリのこと書いていたのも同時に思い出す。ていうか要は、SNS疲れる、隠遁してえ、というそれだけの話で、これもうかれこれ10年くらい言ってる。