TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

目に見える本棚

いままで努力をしたことがないんだ、と語っていた旧友の言葉に今さら頷く。何をやっても頑張れている感じはせずに、のらりくらり躱すうち日が暮れる。人から見れば頑張っているようにも見えるらしいとは知っている。しかしこの程度を「頑張る」と呼ぶとするんなら、世間とはずいぶん簡単なものだと思う。

 

 

目を休めたほうがいいんだな、と気が付いた。頑張るときも息抜きのときも、たとえば読書にしてもネットサーフィンにしても、そういえば目を酷使してばかり。目を閉じるのが怖いからだ。明けない夜を受け入れるのが怖いからだ。

 

 

たとえば人生がSFじみた超常展開になったとき、人の心の動きというのは、平生よりもぐっとシンプルなものになるんだろうか。SFに代表されるエンタメ小説は一般的に、心の動きではなく、「出来事」のほうにフォーカスして話を進める。必然的に、そこにいる人たちの心の描写はある程度平板な感じになる。

 

けれど実際、生存が脅かされるような極限状況でもない限り、いやたとえそういう状況だとしても、あいつが好きだとかあいつが嫌いだとか、自我だとか淋しさだとか、そんな「純文学的な」ことを人は考えるんじゃないだろうか。どうだろう。

 

出来事の面白さと、ナイーブな内面の両立。『虐殺器官』を好きな理由はそこにある。だいたい内面を捨象した作品というのは、心が整っている状態でないと読めない。だからたとえばSFは比較的、まともな人たちの読みものだなあ、と感じることがある。SF好きってたぶん自律神経とか結構ちゃんとしてるんではなかろうか。印象として。

 

 

本棚の整理をしている。どの本がどこにあるのか、あの本は買ってあるのかいないのか、そもそもこの本の内容は何なのか。すべてがフラストレーションにつながる。だけど目に見えるところ、手の届くところに全てを配置はできない。死角は必ず生まれる。というより、すべてを視界に収めたいなんて、そんな欲望自体がまず間違っている。何かが視界に入っていないことによる機会損失、なんかよりもっともっと、恐れることは他にあるはずだ。たとえば今ある蔵書をすべてブックスキャンに送ってしまったとして、それでも脳は残るんだから。

 

 

呼吸が乱れる。レクサプロは手持ちがなく、iHerbで注文した5-HTPを飲む。自分の心身の状態について、分かることなんてひとつもないけれど、こんなことでは解決にならないことだけは分かっている。夜が明けるまで耐える? そもそも本当に夜は明ける? 目を閉じること以外に、いい策を今のところ知らない。