最近仕事方面でいろいろあり(というか現在進行形でまだ死ぬほどいろいろあるが)、12/21に予定していたあいけ式ベストハンドレッド2024を延期した。さらに体調を崩しかけたものの、これは速攻でちゃんとした薬を飲むことで踏みとどまっている。ことほどさように仕事方面のいろいろが本当に心身をすり減らしてきており、なんというか、比喩ではなく崖っぷちに立たされている。まあ勝ってみせるから大丈夫。ギラギラいこうぜ。爆勝ちすんぞ!(最後のはトリリオンゲームで令和のリアル爆勝ち男こと目黒蓮が言ってるやつ)
そもそも人生において「勝ちたい」という意識が芽生えたのは久しぶりだ。それには自分自身の元来の性質もあれど、「勝ちたい」の生じなさにはきっと文化的要因と時代的要因がある。前者はカルチャー系にありがちなダンディズムしぐさで(と自分ごとながら茶化して言ってるが、他方でわりと深刻なことだとは思う)、後者は2010年代以降に出てきた「無理しなくていいよ」「自分を大事にしよう」的な空気である。
しかし最近では潮目が変わっている。2010年代のTwitterでは「行きたくない職場の飲み会」なんて純然たる悪だった。メディアのいう「Z世代的な価値観」というやつだ。けれどいまのXでは「飲み会に行くのはなんだかんだコスパ良い」「なぜなら数時間ムダにするだけで、職場でのコミュニケーションにおけるポジションを得られるから」という話がバズる。あるいは「最近はみんなダサい営業とかするのを嫌がるから、逆にダサいことやるだけで差をつけられる」みたいな話がバズる。そして実際、そっちのほうが、動物として生きていくうえでは正論だと俺でも感じる。
詳しくはあいけ式ベストハンドレッド2024の中で多様な文脈と共に浮き上がらせていこうと思うけれど、2020年代はひとつには「現実の時代」である。「SNSやAIによって楽に生きていけるのではないか」という幻想は、今のところ「高額なChatGPTo1に課金できる層だけが勝っていく現実」が単に立ち現れるだけで終わっている(つまり落合陽一の言うAI+BI的な世界観である)。またコロナ禍で生まれた「すべてリモートワークでいけるのではないか」という幻想は、「でも結局直接クライアントとやり取りしてる奴が当然勝つよね」という現実に追い越されているように見える。(こういう例は枚挙にいとまがない。セクシュアリティをめぐる議論とかも全部こういう流れで、つまりwoke左派以降、世界はただただそうなっている。)
そして俺はといえば幻想の時代にどっぷり浸かって10代20代を過ごした奴なわけなので、当然そういう正論なんて最悪だと思っている。最悪だと思っているが、しかし、受け入れなければ勝てないのだ。というより、「勝てなくていい」という発想自体が2010年代的な幻想だったわけで、やっぱり我々人間が動物である以上、「勝てなくていい」わけがないのだった。
さてここでひとつ考えるべきことは何か。「幻想」と「現実」。そういえば『現代人第四号』の巻頭言で俺は、文学は幻想に関係があるのだと力説した。ならばあれを今一度、理論的に、知的に、なおかつ本能的に、即物的に、突き詰める必要がある。だからこれから懸命に取り組むべき問いはこうだ。「現実の時代にとって幻想とは何か」。まだ延期先の日にちも決まっていない我がベストハンドレッドに、ひとまずこの問いを投げかけておき、また現実を生き抜くための支度にかかろう。