今日は気分が落ち込んでいた。
Zoomでのゼミはどうも苦手で、つまり「家にいる自分」と「大学にいる自分」がわりと明確に別人格だから、その境界線がぼやけるのがしんどい。
で、別にゼミのせいじゃないけど、日が傾くにつれて、もう無理です人生手遅れです無人島で一生を終えたいです、、、というくらいの感じになっていた。
(ランニングしてウォークマンをONにしたら耳元でサンボマスターが「ビューティフォウ!!ビューティフォウ!!」と爆音で褒めてくれたので最終的には何とかなった。→『ビューティフル』)
ネガティブな気持ちはだいたい、他人との比較から始まる。
「他人、過去の自分、親」
この3つと自分を比べちゃいけないという教えがみうらじゅんの「比較三原則」だけど、頭で分かっててもやっぱり比較はしてしまう。「比較」なしに資本主義は成立しない。
ひとたび比較し出すと、友人・知人の誰もが自分よりも遥か高みにいるような感覚に陥る。
彼ら彼女らは僕よりも人生と向き合い、社会的活動をし、面白い考えを持っており、人格も優れている。
かたや自分だけが前に進めていないのではないか。そもそものんきに学生をやり、実家暮らしをしてる時点で、「生きる力」みたいな点で遅れを取っているコンプレックスもある。
メンタルが下へ下へと落ちていく先ではいつも、自分の「不自由さ」……というか、しょぼさを実感する。
なぜそうなのかという事情はまた別の機会に書けたらいいけど、たとえば僕には半年間の留学なんてできないし、大学院には進めないし、まして、今いる家から荷物一式を携えて地方へ移住することもできない。
いきなり2~3年休学して全国を行脚することもできないし、リスクを冒しながら起業することもできない。
そりゃ「物理的には」できるかもしれないが、いろんな現実的しがらみを考慮すると、やっぱりできない。
(これを「できないんじゃなくてやらないだけだろ」と言うかどうかは、各々の価値観による。)
ともあれ自分の努力不足も相まって、こんなのを「主体的」な生き方と呼ぶにはどこか抵抗がある。できないことがいっぱいあるじゃないか。
(またひとつ注釈。実際、僕よりも「できないこと」が多い立場の人なんて探せばいくらでもいるのは分かっている。でも、ここではもう少し、理想を掲げた話をさせてほしい。)
日本ではざっくり言えば明治維新このかた、主体だとか、自由だとか、個人だとか、そういったものが重視される世になった。
「君は何にでもなれる」、「どこにでも行ける」、「無限の可能性を持っている」。
我々は社会から何となくそうやって教え込まれながら育ってきた。近代という時代には、ぜひともそれらが必要だから。
しかし実際、ここにはあるレトリックが隠されているんじゃないか。
哲学者の岡本裕一朗先生が、「みんな違ってみんないい」には「みんな違って(いいものを持っていれば)みんないい」という省略箇所があるのだと言っていた。
なぜなら、「違う部分」がイコール「良い部分」なはずがないから。悪い個性だってたくさんある。
これと同様に、省略されてる部分を補えば、
「(なれる人は)何にでもなれる」
「(行ける人は)どこにでも行ける」
「(持っている人は)無限の可能性を持っている」
まさに同語反復、トートロジーの世界。大人たちに隠された影の部分。
「主体」という共同幻想。
一方、これまたざっくりした議論になるけど、人々の身分がだいたい固定されていた時代、つまり江戸時代以前の人たちは「主体」や「個人」なんて概念を知らなかったはず。
なら、自分の冴えない生活にも「ま、こんなもんか」と納得してたのだろうか。
だとすれば、「何にでもなれるよ」と言われつつ実際はろくなものになれない我々と比べて、どっちが幸せなのか。
どうせダメなのなら、最初からダメと言っておいてくれればいいのに。
と、こんなことを考えていたとき、冒頭で書いたようにサンボマスターが流れてきた。
そして家に帰ってシャワーを浴び、前に録画しておいたNHKの『100分de名著 平家物語』を再生し、元気になった。単純すぎる。テキトーくらいがちょうどいい。
余談だけど、昨今の自粛に伴い、「文化」の必要性は改めて認識されつつある。
そんな世の中の動きと奇しくも同じようにして、僕は今回もまた文化に救われ、ありがたさを実感した。もちろん文化の中で僕が一番考えてるのは「文学」について。
今度またそのへんの話もできたらいいな、と思う。
特に結論だとかオチみたいなものはありません。ブログなんで。