TweetとNoteのあいだ

日記の亜種

徒然未満、自由連想、呪詛散文

心の底。ゆっくり落ちるでもなく、揺らぎは一瞬。あ、来たな、と分かる。悲しいわけでもなく涙が逆巻く心の底。豊かなはずの世界を貧しく感じることしかできず、誰かの笑顔を曇らすことしかできず、毎日毎日なぜ生きてるのだろう、と自問するしかない井戸の底。動物や植物の命を犠牲にしては、醜い人生にしがみつく罪悪感。こんなことまで歌ってくれてるから、RADの『DUGOUT』って曲が大好きだ。

 

今日は頭が痛かった。めったに体調は悪くならないのだけど。身体の痛みが精神まで蝕む。些細な綻びを無視するためのドーピング手段、今までの人生でもうちょっと準備しておけばよかった。定期的に身体に不調をきたすことが分かりきっている女性の感覚は俺にはわからないけど、憂鬱だろうな。こうべを垂れることしかできない。大抵の出来事に対して、群れからはぐれた蟻みたいに無力。

 

あいみょんの新しいアルバムを聴きながら書いている。実際はどんなに試行錯誤があったとしてもそんなこと感じさせず、良い曲たちがサラッとできちゃいました、みたいな軽やかさ。どうなってんだよ。俺もアマチュアながら作詞をやるけれど、せっかくだからと欲張りすぎて、中身がいつもトゥーマッチになってしまう。こないだ作った中の一節「恋と呼べなけりゃ/意味がないと/責め立てる常識たち」、ほら、こんな調子で一曲続いたら胃もたれしそう。あいみょんを見習いたい。『シガレット』とか『ポプリの葉』が好み。

 

昼は駒場キャンパスへ行った。書籍部でせっかくいろいろ買ってきたのに、読む体力と気力がない。いとうせいこうの新作小説が載ってる『文學界』10月号とか、ちくま新書の『世界哲学史』シリーズとかね。結局、読書なんてものは心身が健康でなくちゃ到底できない贅沢な営み。まあ、疲れた心の癒しになるような小説だってあるはずなんだけど、俺は小説というメディアを最早そういう情緒的存在として見れなくなってしまった。不幸。勉強すると不幸になるよ。

 

駒場キャンパスといえば、今日はちょうど健康診断の日みたいで、人が結構いた。1年生かな。仮に1年生だとして、浪人とかのブランク無しだとしたら半数くらいが18歳。やば。こっちは24歳だよ。ざっくり言えばどっちも「若者」だし別に変わんないだろう。この程度で老いたとか言ってたら瀬戸内寂聴に笑われる。でも僕なんかより今日見たあの人たちのほうに、偉大な人生の前途は開けている気がする。劣等感。身を焦がすような憧憬。なんて俺の気持ちには気付かないままで、彼ら彼女らは春を過ごす。

 

アカデミズムに残らないでのこのこ就職する自分を、憎いと思う。バカだなと思う。来年の春には、哀れ、資本主義のど真ん中へ。練り上げた哲学や思想を仕事に実装するなんて本当にできるのかよ。いくら勉強したってどうせダメだやめちまえと響く声。その声を発してるのは他ならぬ自分。じゃあ他人に迷惑かかんないし、いくらぶん殴っても構わないわけだ。大学だって今や「資本主義の外部」なんかじゃないだろ。どっかに逃げ場があると思うなよ。

 

早死にしたい。もしも地元でひっそり死んだとしたら、その情報は知り合いのみんなにどんな動線で伝わるだろう、とかイメージする。あいつ死んだらしいよ、と噂話みたいになるかもしれない。そんな曖昧な感じじゃちょっと悲しいから、やっぱりニュースになるくらい派手にいっちゃったほうがいいかな。泣いてくれる人は何人いるだろう。あの人は、目に涙浮かべるくらいはしてくれるかもしれない。でも大体一晩もすれば忘れられそうだ。歯車がひとつ欠けたところで、ねえ。

 

長生きがしたい。誰よりも生きたい。今いる親族や友人や知人がことごとくいなくなった世界へ行ってみたい。もはや耐えられるような重みではなくなった思い出たちに浸って、ぐちゃぐちゃになった心。涙さえ出ないくらいの荒野。そこで自分は何を思うのか、どんな言葉を発するのか。きっとすごく良い詞が生まれるはずなんだよね。これを今読んでるあなたのことだって、俺はちゃんと見送ってあげるよ。骨は拾ってあげないけど。

 

さて、それじゃお風呂入ってくるのでこのへんで。今日のお相手はガンランサーでした、また来週。リスナーのみんなも元気でね。……みたいなラジオっぽい感覚でやってたり、やってなかったり。